インターネット精神の継承

テクノロジー : 日経電子版

電話、テレビから医療、教育まで様々なサービスを安心・安全に提供するIP(インターネット・プロトコル)網を目指す次世代ネットワーク(NGN)に通信各社はしのぎを削っているが、顧客の囲い込みやインターネットの自由が失われるのではとの課題も指摘され始めた。慶大環境情報学部教授の村井純氏は「インターネットは(NGNに比べ)『ぼろい』。しかし、誰もが参加できる創造的社会の基盤としてのインターネットは維持すべき」と問題提起。キャリアや行政、ユーザーなど様々な立場から発言が相次いだ。

この次のエントリで、NGNに関する技術的な整理をできればと思っている。その前口上として、ひとまず私自身のスタンスを明らかにしておきたい。

この会議自体には参加していないので、必ずしも感覚が一致しているかは定かでないが、私は村井先生の主張に概ね賛成である。その上で、NGNに反対するものではないが、一方で「インターネットの精神」をどう継承するのか、インターネットをどう継続させていくか、が問われているのだと思う。

すでにこのblogでも何回か触れているが、そもそも現時点では「NGNの賛否を判断できるほどの情報(実装)がない」というのが実態だとは思う。ただ、私なりに関係者から伝え聞いた話を含めても、私は別にNGNそのものを否定するつもりはない。少なくとも「通信インフラのIP化」という視点が時代の趨勢であることは、否定しようもないからだ。

ただ、NGNを考える上で留意しなければならない点がある。それは、IP技術の採用とインターネット技術の採用は別物である、ということだ。この場合、前者は「IPという方法を用いた通信(情報の伝達)に関する技術」であるのに対し、後者は「インターネットというネットワークを運用する技術」を指す。そしてNGNは、今のところ前者だけを採用しようとしているように見える。

両者の違いが意味することを明らかにするには、ルーティングやセッション管理などの技術的な検討を要するので、詳細は次回以降に整理したい。ひとまず今回のエントリで指摘しておきたいのは、「NGNはインターネットの精神を継承しないネットワークになる可能性がある」という懸念だ。

実は個人的な事情もあり、インターネットの精神とは何か、ということをこの数週間自問しつづけてきた。なかなか答えは出ないし、未だはっきりしているわけではないのだが、自分自身の経験(仕事と日常生活の両方を含む)から分かってきたのは、

  • 参加したいと思った誰しもが参加できる
  • 自分が手を動かせば、自分がしたいと思ったことを他者に伝えることができる
  • そしてそんな自分の振るまいを他者が楽しんだりおもしろがったりできる

といった要素である。こう単純化してみると「まず個のノードがあり、それがつながることでネットワークになる」ということだけなのだが、インターネットには

  • どんなノードでも受け入れる
  • つながる大前提であるネットワークを破壊しなければ、どんな使い方でも受け入れる
  • ネットワークそのものを含め、あらゆる応用への提案を自由に受け入れる

という寛容さがある。この寛容こそが、インターネット精神の骨子なのではないか、と考えている。

一方、インターネットはオープンでなければならない、あるいはインターネットは公共性を有していなければならない、という議論をしばしば見かける。そして、ともすればそれが命題となり、オープンでないものは去れ、公共に資するものでなければ使うべからず、といった方向にも話は発展しがちである。

実際、私自身が村井先生が作った(といってもいいだろう、少なくとも建学の父の一人である)慶應大学SFC出身であり、1990年代前半頃からインターネットを利用してきた。そして上記のような議論をあちこちで(それこそfjなどのネットニュースなどでも)経験してきた。それゆえ、その意見にも馴染みはあるし、理解できる部分も少なくない。

ただ、その後の様々な経験を経て、それらはあくまで、上記に挙げたような「インターネットの精神」をドライブさせるための方法論なのだ、と私は考えている。もちろん方法論だからといって蔑ろにするつもりはないし、従来は極めて有効に作用してきているのだが、その方法論もインターネットの成長のフェーズによって変わりうるものであり、またインターネットを継続させるにはそれを変えていかなければならない、とも思う。

話がやや横道にそれたが、たとえば上記のような思想がインターネットの精神だと仮定したとして、ではNGNにそれを満たす要素があるのか。正直、私はやや懐疑的だ。なぜならばNGNのそもそもの成り立ちが、上記の要素によってもたらされた課題(通信の品質や信頼性に欠ける、産業レイヤー間の再配分が不均衡になる、等)を、技術だけでなくむしろその運用方法(という政策的思考)によって解決しようとしているからだ。

私が冒頭で「NGNはインターネットというネットワークを運用する技術を継承しようとしていない(少なくとも分からない)」と述べたのは、そういう意味なのである。すなわち、NGNの運用技術を構築する際、インターネットの精神をもって運用方針(ポリシー)を作ろうとしているのか、という懸念だ。実際、もしNGNにインターネットの精神が持ち込まれるのであれば、今度はNGN本来の思想と矛盾を来すことを意味するはずだ。

繰り返すが、私はNGNを否定するものではない。日本を代表するISPの一つであるNTTコミュニケーションズでさえ、売上構成を見るとIP通信は全体の3割弱に過ぎず、長距離通話の方がはるかに大きい。その長距離通話のインフラをIP技術によって効率化できるのであれば、マクロで見ればIP通信部門にも好ましいインパクトが及ぶはずである。事実、ソフトバンクBBという会社はNTTに先駆けてそれを実現している。

しかしNGNがインターネットと異なるポリシーで運用されるのだとしたら、インターネットはインターネットとして引き続き維持・発展させなければならない。それは、インターネットが「誰もが参加できる創造的社会の基盤」だと信じているからだ。実際、インターネットがなければ、Yahoo!GoogleYouTubeも生まれなかった。あるいはMicrosoftやNTTだって今のようなユーザ指向の高いベンダ・プロバイダではなかったかもしれない。

そのためには、NGNと対抗しうる技術競争が必要である。私は、それは可能であり、またインターネットにはまだまだアドバンテージがある、と思う。少なくとも上位から下位の各レイヤに至るまで、インターネット・コミュニティにはそれを実現する力がある。そして私はこれから、その可能性を信じ、インターネットの更なる発展に資することを、自らの生業としていきたい。

思いがけず宣言文のようになってしまった。ただ、今後インフラやサービスを考えていく上で、立脚点を明らかにする必要があると考え、あえて物してみた。次回のエントリでは、もう少し技術的な面から、NGNの課題を明らかにしたい。